Tuesday, 31 January 2017

明治初期の画期的英和辞典『英和字彙』の編纂者、子安峻と柴田昌吉の対照年表


明治初期の画期的英和辞典『英和字彙』の編纂者、

子安峻と柴田昌吉の対照年表
 

Chronological & Contrasting Personal Records of Takashi Koyasu and Masakichi Shibata, Compilers of the English-Japanese Dictionary Published in 1873

 

和暦

西暦

子安 (鉄五郎、宗峻)

柴田 昌吉 (大助[大介])

天保7

1836

55 安八郡大垣藩士子安五百右衛門宗茂の家に長男として生まれる。

 

 

 

1837

 

 

 

1838

 

 

 

1839

 

 

天保

11

1840

この頃、藩主が参勤交替で江戸に上るたびに父は漢書など買い求め鉄五郎に読み聞かせる。

 

天保

12

1841

 

1227 長崎の地役人馬田永成の六男として長崎に生まれる。

天保

13

1842

大垣の藩校「敬教堂」に入学し漢学を学ぶ。

 

 

1843

 

 

 

1844

 

 

 

1845

 

 

 

1846

 

 

弘化4

1847

敬教堂の句読教授に任命される。

長崎の町医者柴田方庵の養子となる。

 

1848

 

 

 

1849

 

 

 

1850

 

 

嘉永4

1851

528 母まき39歳で亡くなる。

秋、鉄五郎をはじめ敬教堂の秀才15名に江戸遊学の藩命が下る。幕府鉄砲方下曽根金三郎の門に師事する。

この頃、漢学を山本晴海・長川東洲に学ぶ。

嘉永5

1852

洋式砲術を本格的に学ぶため蘭学者佐久間象山の門に移る。

 

嘉永6

1853

象山に随行し浦賀でペリーの来航を見る。

軍政改革を藩に建言する。
梧風の号で漢詩二首を作る。

この頃、蘭学者名村八右衛門に師事する。 福地源一郎も共に学ぶ。

嘉永7

1854

吉田松陰の密航事件で象山が連座したため大垣藩帰藩の命令が下る。

 

安政2

1855

2度目の遊学を認められる。江戸で坪井芳洲から蘭学を学ぶ。

 

安政3

1856

藩主戸田氏正に京都守護の幕命が下り随行する。

 

安政4

1857

京都で広瀬玄泰から蘭学を、辻令輔から舎密術を学ぶ。

京都在塾中にマグネット・エレクト機の製造を試みる。

 

安政5

1858

藩主の京都守護が終り大垣に戻る。

藩の師弟に舎密術 (chemistry) を教える。

英語伝習所(楢林栄左衛門・西吉十郎頭取)の開設とほぼ同時に入学する。

藩の家老小原鉄心の尽力で再度の江戸遊学を認められる。      

安政6

1859

4 村田蔵六の家塾に入学を許可され、蘭書による兵学の勉強につとめる。

4月伝習所の世話役助に命じられる。

12 世話役となる。

万延1

1860

村田塾「鳩居堂」の塾頭となる。塾にて近藤真琴と親交をもつ。昼は籠もり夜になると勉強をしていたので蝙蝠先生とあだ名をつけられた。

7 伝習所にて出精したので手当年俸銀四百目を受ける。

 

1861

 

 

文久2

1862

41 村田推薦で蕃書調所教授手伝(助教授)となる。

 

この頃、英学への転向を決意する。

47 英語通詞手加勢、港会所詰を命じられる。その傍ら、英語稽古所で英語を教授する。

419 英語稽古所世話方に専念することを申し渡される。

420 和蘭人サントレールに日本語を教授する。

3

1863

419日、父宗茂大垣にて61歳で病没する。

4月末、横浜で恩師村田とともに米人宣教師ブラウンおよびヘボンの塾で英語を学ぶ。

720 英語稽古所頭取を命じられる。何礼之助・平井義十郎が定役格に任命される。

827 英船に乗り込み通弁の役を果たす。

12 英語伝習所は洋学所と改称、教授方を命じられる。フルベッキは同所での同僚である。

元治1

1864

神奈川奉行通詞取締(助教授と兼任)となり、 横浜運上所勤務を命じられる。

6 奉行所並びに外国人方にて応接通弁を勤めるよう命じられる。

元治2慶応1

1865

 

38 一代限り英語小通詞となる。8 英語伝習所は済美館と改名、引き続き教授方を勤める。柳谷謙太郎も教授方である。

9 運上所掛通訳方を免じられるが応接通弁の用は従来通り。

慶応2

1866

 

 

慶応3

1867

この頃、藩主の命で周旋方として横浜に出て諸藩の間を奔走し大垣藩のために尽くす。

3 病にて引きこもる。

312 何礼之助・柳屋謙太郎と数度職を転じ、辞して国に帰る。共に外国方の用で江戸出府を命じられる。

413日長崎丸で江戸に出発する。

429 品川沖に着く。

5 麻布板倉片町の岩瀬内記の長屋に住む。

5 泉岳寺の接遇所(公使館)にて E. サトー、 H. パークスと出会う。

714 柳屋と共に江戸築地に開設された海軍伝習所勤務となる。

併せて外国人居留地御用掛を命じられる。

この頃、 英国海軍士官の通訳を勤める。

慶応4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治1

1868

4 外国官一等訳官に任じられ横浜駐在を命じられる。

420 神奈川裁判所通弁並翻訳御用を命じられる。

子安鉄五郎・柴田大介はここで出会い同じ翻訳方の仕事をする。

6 佐波銀次郎とともに翻訳方(月俸30両)を命じられる。

2 政情不安により海軍伝習中止を余儀なくされる。

4 横浜裁判所勤務を命じられる。

53 神奈川裁判所で通弁並翻訳の御用を命じられる。

子安鉄五郎・柴田大介はここで出会い同じ翻訳方の仕事をする。

 

6 通詞並びに取締向の仕事をする。

 

113 庶務補訳官に任じられる。

明治2

1869

 

英人電信技師 G. M. ギルバートについて通信技術を学び和文モールス符号を考案する。

 

 

8 太政官より大訳官を任じられる。

明治天皇にオーストリアより献上のモールス機について進講する。

 

11 従七位に叙せられる。

1225 横浜裁判所と築地運上所を結ぶ電信業務開始に尽力する。

16 英語教授を命じらる。

18 創設された洋学校に、裁判所勤務の傍ら教授を兼務する。

219 フェルベッキと会う。

この頃、子安に本野盛亨(後の第2代読売新聞社長)を紹介する。

527 通弁並びに翻訳方頭取を申しつけかれる。

1020 外務省中訳官(神奈川在勤)となる。

12 港内取調、新聞紙掛を申しつけられる。

明治3

1870

春、林道三郎、柳谷謙太郎、柴田昌吉らと辞書の翻訳執筆を開始する。

4 横浜元弁天町に活版印刷所「日就社」を設立する。

5 外国官大訳官 文書権正に任じられる。

522 子安宗峻・柴田昌吉共訳『英国海軍律令全書』2冊および『同別輯』1冊を刊行する。
11 この頃、日就社は邦文活字の字母を入手する。
128 我が国最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』を創刊する。社長島田豊寛、編集責任者子安宗峻、印刷担当者永陽箕二(又は陽其二)。
1226 洋語学所督長を命じられる

この年も神奈川で勤務する。

日就社の出版方を担当する。

514 外務省より文書司大佑に任じられる。条約改革取調並びに翻訳課を申しつけられる。

522 子安宗峻・柴田昌吉共訳『英国海軍律令全書』2冊および『同別輯』1冊を刊行する。

1023 外務省出仕を申しつけられる。

 

明治4

1871

5 洋語学所督長を免じられる。  

6 本課の余暇交際規則の取調を命じられる。

810 外務少記となる。

10 洋語学所督長の兼務を命じられる。

127 外務大記となる。

129 従六位に叙せられる。   

 

810 外務大記となる。

10 従六位に叙せられる。

108 特命全権大使欧米各国派遣に際し二等書記官として随行せよとの達しを受けるが、病のため辞退する。

明治5

1872

513 外務少丞となる。

522 洋語学所督長の兼務を免じられる。

6 マリア・ルイーズ号事件で外務官僚として解決に奔走する。

615 正六位に叙せられる。

この頃、名を宗峻より峻と改める。

8 書籍館(現国立国会図書館)の開設に尽力する。

813 洋語学所課長となる。

11 翻訳局長となる。

(太陽暦採用 明治5123日を明治611日とする)

119 正式に派遣団から罷免される。

明治6

1873

1 子安峻・柴田昌吉は『附音挿図 英和字彙』を日就社より出版する。
 

420 日就社を東京芝琴平町に移す。
この頃、政府から新聞発行の認可を受けるために奔走する。


読売新聞の看板
 

1 子安峻・柴田昌吉は『附音挿図 英和字彙』を日就社より出版する。

 

この頃、『明六雑誌』16名の執筆者の一人となる。

明治7

1874

6月頃、少丞正六位として外務省に奉職する。

624 本局出仕を命じられる。

628 外務省翻訳課長となり東京勤務となる。

112 鈴木正雄が計画し本野盛亨が出資し日就社同人は『読売新聞』(隔日刊200部)を創刊する。子安は在官のため陰で指揮統括する。
 
1216 『読売新聞』に育児論を掲載する。

428 『明六雑誌』に「ヒリモア万国公法のうち宗教を論ずる章」と題し、イギリスの国際法学者フィルモアの著書『国際法注釈』から一部を翻訳。

6 六等出仕として外務省に奉職する

明治8

1875

日就社はこの年にブリンクリーの『語学独案内』を出版する。

11 児童雑誌『まなびの暁』(月2回刊)を発刊する。

125 外務権大丞に任じられる。

 

明治9

1876

4 少年雑誌『小学雑誌』(隔日刊)を発刊する。

「偕楽会」にて安田善次郎・成島柳北・小野義真らと交流をもつ。

大阪市伏見町に日就社支店を開設し読売新聞を販売する。

9 外務権大書記官となる。

五等出仕として奉職する。

明治

10

1877

外務省を退官する同時に士族籍を返上し平民となり日就社社長として活躍する。

日就社社屋を銀座一丁目に移す。(5月に社告)

8 保健雑誌『養生雑誌』(月2回刊)を発行する。

岩見鑑造訳述『西洋諺草』(50丁、日就社売捌)の校閲を行う。

10 官公庁布達解説誌『布達解訳』(日刊)を発行する。

第1回内国勤業博覧会で創意の功により大久保利通道内務卿より龍紋省牌を授与される。

1224 ロシア皇帝よりアンナ第三等勲章を贈られる。

1 権大書記官となる。

 

4 正六位に叙さられる。

 

 

 

この頃、柴田も外務省を退く。

明治

11

1878

3 室田義雄編『大日本駅程宝鑑』(日報社発売)の校正をする。

519 読売新聞紙齢千号記念祝賀会を開催する。

6 新聞縮刷版「大東野史」(週刊)を発行する。

111124日~16417日までの読売新聞に社長子安の署名あり。

 

明治

12

1879

14 「雑譚」(社説の前身)を創設する。

8 内務省より東京地方衛生会委員を命じられる。

この頃、小野梓と共存文庫(現早稲田大学図書館)設立で合意する。

1114 京橋区三十間堀の狐亭で五百名社創立について最終的な詰めを行う。

 

明治

13

1880

11 安田善次郎らと日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(安田生命)を設立し幹事となる。

215 五百名社の第1回社員総会を開催する。

貿易会社扶桑商会を設立に参画し副頭取となる。資本金30万円。頭取は原田二郎だが間もなく頭取の席を譲られる。

10 貯蓄銀行の発起人に成島柳北・原田二郎らとともに名を列ねる。

 

明治

14

1881

扶桑商会開業し生糸直輸出に参入する。

芝増上寺境内純和風高級社交場「紅葉館」の設立に尽力する。

同境内に能楽復興のため楓山能楽堂の建設に尽力する。

625 五百名社の総集会を紅葉館で開催する。子安は申し合せ規則追加の報告を行う。

920 読売新聞紙齢二千号記念祝賀会を開催する。

 

 

 

交際を謝絶し寝食を忘れ蓄財を食いつぶし辞書の執筆に傾注する。

 

 

 

この頃、長崎市材木町壹番戸に住む。

 

明治

15

1882

扶桑会社の会頭となる。

8 『増補訂正 英和字彙』第2版を発刊する。

921 大蔵省より日本銀行創立事務御用掛を命じられる。

109 日本銀行初代監事に選任され2期6年(21820日まで)在任する。

日本銀行大阪支店の開業に尽力する。

8 『増補訂正 英和字彙』第2版を発刊する。『英和字彙』の改訂作業は実質的に柴田が行ったと思われる。

明治

16

1883

428 日本銀行開業式で株主代表として祝辞を述べる。

1019 小野梓より書翰を受け取る。

長崎市萬屋町に寓居する。

明治

17

1884

112 読売新聞創刊10周年祝賀会が開催される。

この頃、長崎にて「英語義塾」を開く。

明治

18

1885

 


 

明治

19

1886

 

長崎市今下町に移り「柴田英語学校」と改称し教科内容を整備する。

明治

20

1887

125 「雑譚」を「社説」と改める。

5 『増補訂正 英和字彙』再版本を刊行する。







5 『増補訂正 英和字彙』再版本を刊行する。

明治

21

1888

女子教育奨励会員名簿に渋沢栄一・加藤高明らとともに名を連ねる。

7 大垣輪中大洪水被災者のために義捐金百円を送り勲章局総裁より表彰される。

8 日本銀行監事を桂冠する。

8 農商務省より三田農具製作所の払い下げを受け東京機械製造株式会社(三田製作所)を創立する。資本金20万円で初代社長は小野金八。この会社はやがて新聞印刷機の製造を行う。

 

明治

22

1889

1 日就社社長を辞し本野盛亨に譲る。

読売新聞創刊15周年祝賀会が紅葉館で行われる。

820日 日本銀行監事の職を辞す。

耳が遠くなり講義は週2回となる。

 

余暇は『英和字彙』の増訂に費やす。

明治

23

1890
 


 (高級サロン紅葉館、明治40年頃)
 

 

明治

24

1891

8 日就社顧問の地位を去る。

塔之沢玉の湯旅館の経営者として玉簾の滝および周辺を「滝の前遊園」と称する有料公園として整備する。

この頃、長崎市酒屋町の家を借りて住む。

 

週1回英作文の添削授業を行う。

明治

25

1892

九州の楠橋炭坑の経営に力を注ぐが失敗し、家屋などを処分する。

1125 芝公園使用名義を解除する。名義使用がいつからかは不明。

 

 

12 英語学校の経営は困難となり廃校にする。

明治

26

1893

326 石橋思案らと『いさみ新聞』を創刊するが125号で廃刊となる。

この頃まで、五百名社の幹事を勤める。

廃校後、長崎港外小瀬戸に移る。

明治

27

1894

胃を病み倒れる。

 

明治

28

1895

 

 

明治

29

1896

 

東京の麹町区中六番町七に移り住む。

明治

30

1897

脳水腫や甲状腺腫を併発する。

 

明治

31

1898

115 東京都京橋畳町の実弟子安雅の屋敷で62才で亡くなる。

調布市の明西寺に埋葬される。

死の直前まで辞書の執筆を手掛ける。

明治

32

1899

 

 

明治

33

1900

 

 

明治

34

1901

 

108 病没する。

 

  この対照年表から分かるように、子安の活動範囲は幅広い。それを貫く理念は啓蒙主義である。辞書も新聞も大衆を啓蒙し開化せんとするものであった。これに対して、柴田の一生特に後年は専ら英語教育と辞書執筆にあてられていたといえる。この二人の生き方は私にアメリカにおけるウェブスターとウースターの生きざまを思い起こさせる。社会的に華々しい評価を受けたウェブスターと辞書や書籍の執筆に一生を捧げたウースターの生き方と重複するのである。